社会人院生記

おっさんの社会人大学院生日記です。

勘違いで購入した本の話

 今回は、勘違いで購入した本の話。ビジネス小説と勘違いして購入した小説が面白かったので、書いてみただけだが、社会人院生の話とは関係ないうえ、やや長いので、ご注意を。

 

 この本は、かなり売れたと聞いているので、ご存じの方も多いだろう。私が勘違いで購入したのは「成瀬は天下を取りにいく」だ。確か、去年(2023年)の11月頃に購入した。

 

 それまでも、この本の存在は知っていた。新聞やあちこちで広告を見かけていたからだ。売れているという。だんだん大きな広告になっていったので、印象に残っていた。広告では「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」という、冒頭のセリフが書かれていた。そして、西部ラインズのユニフォームを着た女性のイラストが描かれている。説明書きに、閉店になる西武大津店を巡る話だとも書かれていた。

 

 ちゃんと広告を見たわけではなく、内容を誤解していた。閉店になる西武大津店を巡る、女性店員などの話、つまり、ビジネス小説だと勝手に勘違いした。「今売れているビジネス小説なのか、それならば機会があれば買ってみようかな」なんて思っていた。11月のある日、たまたま書店に立ち寄った時に目の前に置いてあったのが目に入った。記憶にあったので、何気なく手に取り、中身を確認せずに購入した。

 

 購入後しばらくは、読む時間が無く、積読になっていたが、たまたま時間が空いた日に、手を取り、机に向かって読んでみた。帯には「かてなく最高の主人公、現る!」とある。ビジネス小説で、そんな主人公の描き方をすれば面白くはないだろう、と考え、ちょっと読んでみて面白くなければ読むのを止めようとすら思った。

 

 実際にはビジネスの話などはなく、中高生の青春小説といえるだろう。結局、一気に読んだ。「かつてなく最高の主人公」、かどうかは分からないが、魅力的な主人公であることには間違いない。当初、ビジネス小説と勘違いしたことを忘れたほどだ。

 

 成瀬あかりは、冒頭では中学生だったが、ちょっと変わっている。変わっている、とは言っても、危ない人でも不良でも面倒くさい奴でもない。「変わっている」という語がぴったりとくるような女子中学生だ。本は短編を集めたものだが、途中で高校生になる。成瀬は、何事も一所懸命だ。けん玉に夢中になったり、幼馴染の島崎とM1グランプリを本気で目指したり、かるた取りに熱中したり、地元のお祭りの司会を一所懸命に努めたりする。かと思えば、高校入学と同時に、髪の伸びる速度の実験だとして丸坊主にしたり、と。また、郷土愛も強い。そして本気で200歳まで生きることを考えている。子供の頃から表彰されることが多いほど、成瀬は全てに真剣だ。言葉遣いもやや変わっていて、微妙に文語風だ。何事も一所懸命、は勉強にも反映されているようで、地域のトップ高校に進学して、成績も優秀だ。

 

 こうして書くと、完全無欠のロボットのようにも見えるが、色んな側面も描かれる。変わり者であれば、子供たちの間では白い目で見られることもある。一時期は、周囲から無視されるような、いじめも受けていたが、それでも成瀬は、ひたすらまじめに自分の道を歩んだ。また、幼馴染が東京に引っ越すと聞いたら、冷静なように見えて動揺するといった、人間的な面も垣間見せる。こういう成瀬を、幼馴染の島崎は、時々イラっとしながらも、暖かく見守っている。

 

 この小説には色んな人物が登場する。短編ごとにメインキャラクターが変わる。これらの人々の話が、その人物による一人称で描かれるのだが、それぞれの人が、成瀬から微妙な影響を受ける。何か、ドカンとした影響を受けるわけではないが、成瀬と知り合う前と後では、何か心持が変わるのだ。成瀬は、ただ一所懸命に過ごしているだけなのだが、これが人々の心を少しずつ潤すのである。それを通じて、読んでいる我々の心も、ちょっとだけ潤うのだ。

 

 中でも、印象に残るのは幼馴染の島崎だ。彼女だけは成瀬にモノ申せる。前述の通り、島崎の引っ越しの話は、成瀬を動揺させる。成瀬は淡々としているようで、島崎に友情を感じていることが分かる。島崎は全ての話に登場するわけではないが、この2人の微かな友情は、一服の清涼剤にもなる。

 

 必ずしも万全な形ではないが、一所懸命な成瀬は少しずつでも夢を叶えていく。タイトルの「天下を取りにいく」も、あながち本当になりそうな気がするくらいだ。

 

 この本を読んでいて「自分はこれほどまでに、一所懸命に生きただろうか」と自問してしまう。そう思わされる小説は、ふつうは嫌なものだが、成瀬には嫌味も自己顕示欲も無いので、嫌な気持ちになることもない。成瀬を通して心持が変わっていく各キャラクターと自分が重なるのだ。成瀬のような人物は、現実の世界には居そうでいない。それでも、会ってみたくなる、そんな魅力を持っている。

 

 もう一つの魅力は、前述の、成瀬と島崎の友情だ。この不思議な2人の関係は何なんだろうか? 自分にはちょっと懐かしい感じもした。読み終わってしばらくしてからも、この2人の関係が頭の中を回っていた。

 

 「ああ、そうか、シャーロック・ホームズとワトスンの関係に似ているのだ」と思い当たった。私は、子供の頃から今まで、シャーロック・ホームズの物語が好きだ。シャーロッキアンみたいなものだ。子供の頃から全巻を繰り返し読み、グラナダ版のドラマはDVDを全巻揃えている。この物語は探偵小説としての魅力の他、個性豊かな登場人物たち、とくにホームズとワトスンの友情の物語が魅力的だと感じている。

 ホームズは変人だ。詳しくはホームズの解説本に譲るが、あまり世間の常識に囚われない。対して、ルームシェアをするワトスン医師はビクトリア朝時代の常識人だ。

 ホームズは変人だが、能力は高く、仕事には精力的だ。為すべきことを心得ており、ワトスンとの友情も厚い。ワトスンは、そんなホームズを暖かく見守っている。成瀬と島崎の関係によく似ている、そんな気がする。ホームズ=成瀬という、考えていることが分かりにくい誠実な変人と、島崎との関係は、私にとっては、子供の頃から馴染んできた人たちの物語と重なるのだ。ホームズ物語60編の内、大半は、ワトスンの一人称で書かれているが、これも成瀬物語に似ている。ホームズ物語が、100年以上経った現代でも、世界中で愛されているのと同じように、彼女たちの物語も、続いてくれたら嬉しい、そんな物語を私も見守りたいな、なんて思った。

 

 そうしたら、昨年の暮れ、駅前書店の前を通りかかったところ、「成瀬 is Back」と書かれたポスターが掲示されているではないか。素直に嬉しかった。私も、成瀬の物語を見守り続けることができる。

 

 「あれ、いつの間にか、成瀬のファンになっている!」そんな自分にもびっくりした。

 

 そして1月24日に「成瀬は信じた道をいく」が発売された。今回は、積読にせず、一気に読んだ。

 

 勘違いで購入した本だが、面白い世界に触れることができて、素直に喜んでいる。

論文執筆は役に立つか?

 以前にも書いた通り、私は修士論文を書くことを選択した。日本でMBA課程と呼ばれるものは、専門職大学院なので、研究科と異なり、修士論文は必須ではない。日本の多くの経営大学院では、修了のための条件として、修士論文を書くか、修士論文ではないが、実務面の課題についての論文を書くか、その他の成果物を提出するか、を選ぶことができる。その他は、大抵は事業計画の立案だ。

 私の大学院も同様で、私は論文を書く道を選んだ。勿論、簡単な道ではない。研究科と違い、入学時から論文を書くための教育を受けるわけではない。各授業でレポートは書くが、修士論文といえるようなものではない。専門職大学院なので、実務に繋がるレポートが主だ。

 論文なんて、読んだことはこれまでもあったが、書いたことは殆どない。書き方から勉強して、指導教授に教わり書き方を徐々に身に着けている。初めは、実務と関係ない、と思っていたが、社会の課題について、根拠を洗い出し、それに基づいて論理を組み立てる過程は、とても必要な能力だ。また、多くの本や論文を読んでいくので、様々な課題を知ることができ、先人たちの知恵も身に着く。そして、限られた時間で情報をインプットしないといけないので、処理能力も刺激される。

 論文なんて、と思いながら始めた論文の勉強だが、意外と役立つ感じもしている。学問は娯楽、と考える人からすれば、愚かなように見えるだろうが、社会科学は実学、と感じる人にとって、教授のサポートはあるが、大半の作業は自分独りで実施しなければならない。工程管理を含めた自己管理をしっかりとしながら、孤独にレベルの高い作業を進めるということは、非常に為になる作業だと感じる。

 まだ分からないが、私の残りの職業人生にとって有益になるかもしれない。

訳語

 いつぞや、大学院の友人と話をしていて「なんで、経営学は横文字のカタカナばかりなのか?」という話題が出た。日本における経営学が若い学問で、まだ翻訳が着いていっていないとか、日本社会の現実が最先端に追いついておらず、翻訳するに適切な用語が作りにくいとか、経営学自体がグローバルな展開を見せており、共通の用語で進めた方がやりやすい、などといった意見が出た。正解は分からないが、恐らくはそんなところだろうと感じる。

 例えば「コーポレートファイナンス」とか言っても、大抵の一般人には、何のことだか分からない。これは、企業が生み出す価値を最大化するために資金調達をして、事業などに使い、出資をしてくれたところに返済や還元をしていく活動のことを指す。この枠組みの話だけなら、当たり前の話をしているだけだが、「コーポレートファイナンス」と書くだけで、一般人には高いハードルとなる。

 明治期に、日本人は西洋の文物を輸入するにあたり、様々な訳語を生み出した。多くの苦労があっただろうことは、想像に難くないが、日本の制度や法律が、カタカナのオンパレードになることを防いだ。
 当時は、カタカナの訳語に馴染みが無いことから、積極的に訳語を生み出すことが、新制度の普及に資するものだったのだろうが、他にも、論語にある「必ずや名を正さんか」の心理があったのだろうという人もいる。

 現代では、下手に訳語を生み出すと却って混乱もしそうでもあるので、訳せば良いというわけでもないだろうが、本や論文を読んでいても、カタカナのオンパレードでは読みにくい。また、漢字の単語の方が意味を取りやすいこともあり、もう少し訳語が増えたらなあ、とも思う。

 日本では、経営学はまだマイナーな分野のように思うが、その理由の一端に、言葉のとっつきにくさもあるのではないかと感じる時もある。学者の方々には、是非、良い訳語を生み出してもらいたい。

短期主義

 色んな事例を読んだりしていると、よく指摘される通り、日本人は「短期主義」なのだなあ、と感じる。これは、実際に自社についても、他社を見ていても感じる。

 新しい施策を提案しても、1~2年で充分な利益を生むという見込みが無ければ受け入れられなかった。上層部からは、常に収益化のプレッシャーをかけられていた。

 こういった話はデジタル化の話でもよく聞く。特に、中小企業ほどこういった話は多い。中小では、運転資金の問題があるから余計だが、大企業でも時々聞く。デジタル化することで、直接的に利益を生むことが要求されるため、現場が躊躇する。

 IT企業に話を聞くと、デジタル化が利益を生むまでの期間は、企業によって結構異なるが、長いのが普通だという。私が、様々な小売やメーカーにサービスを納入している、あるIT企業の幹部に話を聞いたとき、この短期主義がネックになると、散々聞かされた。デジタル化の利点は中長期で現れるもので、短期で求めると施策がチグハグになり、現場が混乱するだけだ、という。
 
 短期主義は、単純化も招きやすい。デジタル化すれば利益に直結、といった具合だ。だが、現代の社会では、組織の大小に関わらず、見えないところで物事は複雑に絡み合ってくる。経営目標やKPIは複雑に絡み合っており、単一の施策や手法で収益が好転する可能性は低い。教育や人事、マーケティングや全体戦略が複雑に絡む。財務面でも、数字で表せる部分だけでなく、決算書に現れない非財務関連資産なども統合して考えなければならない。

 デジタル化は、内部においてはそれらの動きを円滑にし、外部に対しては情報伝達の多様化とデータの収集、といったことについての成果が期待されるものだ。当たり前の話だが、デジタル化が問題の解決に直結するわけではない。短期主義が短絡を招くと、当たり前のことが欠落してくる。

 いや、そんな稚拙な間違いを、大学を卒業している大人がするわけではない、という人もいたが、色んな企業の人と話をしていると、この点を懸念する話を結構、聞いた。意外と、身近なところで気づかないうちにそういった事態が進行しているのかもしれない。自分は短期主義に陥っていないだろうか? ちょっと自分のことが心配になる。

モラルの劣化

 知人と話をしていると「最近は、取引のモラルなどが無い人が増えた気がする」といった話を聞くことがある。全体としてのモラルが崩れたとまではいかないが、取引先や自社にそういった従業員が、以前より増えた気がするという。
 連絡をすると言っておきながらしてこない、書類を期限までに送ってこない、期限ぎりぎりでできないと言ってくる、振り込みが遅れても平気な顔をしている、無断欠勤の末に退職、などなど。注意をすると、あからさまに嫌な顔をする人もいるとか。自分も、社会人としての経験から「連絡をすると言ってしてこない」は致命的だろう。

 若い人の話かと思ったら、意外と中高年にもいるのだとか。確かに若い層の割合が多いが、40~50代でもいるとか。若い頃はちゃんと仕事をしているように見えたが、その年齢になってから、そういった行動が目立つようになった、といった話も聞いた。

 社会全体で精神をやんだ人が増えたのかと思ったが、知人たちに聞くと、必ずしもそうではないという。勿論、そういった人もいるようだが、言動などから全くその兆候が見えず、診察等を迂闊に勧めるわけにも行かず、そもそも何が原因でそうなるのかが、分からず対応に苦慮しているそうだ。

 そういう人が増えた感は私にもある。ヤフオクなどを利用して中古品を売買することがあるが、私の出品物が落札されても、落札者から連絡がこない、という事例が増えた。数年前まで殆どなかったが、ここ1~2年、そういうことが出てきて困っている。勿論、病気やケガといった事情もあり得るので、少し待った上で丁寧に連絡をするが、それにも返信がない。
 そういう人の大半は、相手の評価履歴を見ると、取引の回数が少ない人ばかり。評価が1つしか付いていない人は、そうなるケースが多い。
 何となく邪推すると、以前も何となく連絡しなかった為に取引をキャンセルされ、悪い評価が着いてしまって、取引ができなくなったために、新しいアカウントを作って落札をしたものの、やっぱり連絡が面倒くさくなってしまった、こんな感じなのかもしれない。

 いずれにせよ、困っているので、落札した以上はちゃんとして欲しいのだが、徐々にそういう人が増えているようで、嫌な気持ちになる。メルカリの方がそういう事例が少ないと聞いているので、そちらに移行しようかとも思っている。

 なんだか、日本人の社会や取引に対する責任感などが劣化しているような印象も受ける。みんな疲れているのか?

 こんなことでは日本経済の復活は覚束ないと思うのだが。

人材

 だんだんと年末が近づいてきた。コスト上昇や人手不足、24年問題などなど、日本経済を取り巻く環境は厳しいのかもしれない。特に中小からは悲鳴も聞こえる。勉強している身としては、色々と心配をしてしまう。

 元々日本の中小は足腰が弱い企業が多かった。リーマンショック後の厳しい状況でさらに弱くなり、その後、ようやく日本の中小も復活の兆しがあるのかな、と思った矢先にコロナ禍が来た。コロナ禍だからこそ活躍できた中小もあることはあるが、多くは厳しい目に遭ったようだ。私の職場も中小だが、やはり間接的だが、強い影響を受けている。

 特にコスト上昇は痛い。大半のコストが上がっているので、身動きが取れなくなっている。賃上げを検討している企業でも、コスト上昇が足枷だ。賃上げを表明していても、雀の涙ほどのケースも多い。
 下請け企業の場合、下請法による保護があるのでまだ何とかなる。それでも発注元と揉めるケースもある。値上げ要素に対する認識のずれもあるが、発注元にとっては、各下請けの値上げ要請を受け付けると商品単価が大きく上がってしまい、結局売れないということになるからだが、8月14日の東洋経済オンラインに掲載されたが、中小側がコストを正確に見積もれていないなどの問題もある。対応したくても、そういった質を持った人材を、中小では簡単に確保できない。

 何回か書いたような気もするが、日本では技術系では高レベルの教育を受けた人材がそれなりにいるが、経営系では少ないという問題がある。文系では、高いレベルの教育を受けて実務に従事するといった人は、弁護士などの独占資格を取得してその業務に従事することが多いが、全体からすると人数は多くない。高い知見を持った普通の労働者が少ないのだ。その少ない人材は、大手に持っていかれ、中小では余り見かけない。結局、大手に従属するしか手がなくなる。

 だからこそ、中小も含めて高いレベルの人材を増やす必要だ。特に個別の事業に関する専門知識だけでなく、経営などについての汎用的な高い知見を持った人間が必要だと感じる。増えなければいきわたらない。

 その為には、中小の足腰強化が必要だ。第一義的には中小の責任だろうが、社会全体の問題だとも感じる。中小の振興が無ければ日本経済の復活もあり得ないだろうから、中小自身がまずレベルアップすべきだが、そもそも高レベル教育が行きわたっているとは言えない日本では難しいとも感じる。だからこそ、社会全体で中小をサポートする必要もあろう。
 大企業には、何も金や人を出せとは言わないが、一定のアドバイスなども欲しいところだ。もっとも日本の大企業も、そろそろその余裕がなくなってきたところもあるようだが、多少のことは欲しいところだ。
 地域によっては、中小向けの教育講座などを開いているところもあるが、良質でも、きめ細かいとは言えない講座が多い。もっときめ細かい講座体系にはしないのか、と自治体の職員と話したことはあるが、予算の問題だけでなく、それだけの質をもった講師を確保することが難しいという。

 ハローワークの講座はある程度、整備されているが、最新の知見を教える講座は少ない。これも聞いたことがあるが、高いレベルの受講生が少ないということもあるが、やはり高いレベルの講師を確保することが難しいからだと言っていた。
 
 こうしてみると、日本全体で高いレベルの人材が、確保しにくくなっていることが分かる。

 教育への投資が、長い目で見た社会整備のために必要なんだろうな。

人脈

 中小の従業員がMBAを役立てるのは、大企業の従業員よりも難しい、と書いた。それは書いてきた通り、自社の中で自分が昇進・昇給したり、よいチャンスを掴んだり、改革を進めることについてだ。自分自身の仕事だけなら、役立てる要素は結構ある。

 勿論、学んだ内容が役に立つのだが、それ以外にも人脈が何かの役に立つことがある。独学と学校の間にある最大の違いは、なんといっても人脈の築きやすさにある。特に、社会人院生は社会が分かっているだけに、余計に築きやすいだろう。或る同期は、人脈のために来た、と断言するほどだ。

 やはり、意欲が高い、他の世界の人達と話すことは楽しいし、刺激もたっぷりと受ける。これは有り難いし、何歳で入学しようが一生の財産になろう。これは嬉しい。

 また、他大学のMBAと知り合うケースもある。これは、特に社会人院生の場合、そんなに多くはないが、ネットワークを辿ることで知り合うこともできる。MBA達と繋がることは、私的にも大きな刺激になるし、仕事の上でいつか役立つこともあろう。

 機会は少ないが、学会もある。特に社会人院生の、それも修士課程の場合はその機会はかなり限定されるだろう。指導教授にもよるが、学会自体は面白い。ここで参加者と親しくなるのは難しいが、発表の機会でもあれば、その場や発表後に質問を受け、名刺交換などをして、ちょっとした勉強にもある。特に社会科学系の学会だと、学者以外の人もいて、そういう人の話は面白い。
 私はこれまで書いてきた通り、専門職大学院ビジネススクールにいるが、学会に顔を出すと、やはり経営関係の学会だけあって、実務家も多い。周囲の人と挨拶を交わして会話をすると、結構色んな話を聞ける。もっと深く入り込めれば人脈にもなるのだろうが、まだ私にはそこまでできていない。

 在学中に人脈を活かしている人もいる。たまたま取引領域が近い人と仲良くなり、取引につながった例もあるようだ。
 時々聞くのは、転職や起業だ。知り合った縁で転職したり、一緒に起業したりする。利害関係のない者同士でビジネスの話をしてきた人の方が、信用できるのだろう。たまに、そういった話を聞く。私もちょっと羨ましいw

 それらまではいかなくても、情報交換は日常的に行われている。飲みに行くグループもあるし、SNSでグループを作っている仲間たちもいる。モチベーションが高い人たちで情報交換することは、当然に有意義だ。

 大手か中小かなんて関係なく交流している。中小の人達も、こうやって社会人院生の立場を活かしていけるし、これは結構楽しいものだ。