MBAは役に立つのか?
MBA課程で学んだことは、仕事で役に立つのだろうか。この問いは、私がMBA課程に居た時にも、時々話題に上がったことだ。また、卒業生や、様々なMBAホルダーとの会話でも、時々会話に出てくる話題だった。
色んな人とこの話をしたが、その内容の最大公約数は「ある意味でノー、ある意味でイエス」という、あてにならないような結果だ。つまり、直接役には立たないが、間接的に役立ったり、土壌として機能する、ということなのだろう。
経営大学院で学ぶことは、汎用的な内容だ。日常の仕事そのものではない。仕事で、特に比較的レベルが高い内容の仕事で要求される知性の最大公約数的な内容が、経営大学院で学ぶものとなる。だから、個々の仕事にそのまま適用できるわけではない。ストレートに適用できるものなど、殆どない。自分で相当なアレンジを加えなければ、実際の仕事には使えないのだ。
また、実際の現場では、これまでと違った考え方や高度な知識を持ち込むと、反感を買うことがある。私も散々やられたが、経営や仕事の内容について、勉強したことを適用しようとすると、それだけで強烈な反感をぶつけられた。私は、職務を通して色んな企業を見てきた。この雰囲気は特に中小で濃厚だが、大企業でも結構見られる。
授業では、学んだことをベースにして、自分の職場にあてはめて分析、対策の立案をして、レポートに纏めるという宿題が良く出されたが、書いていて、「こんなことを職場で言ったら、それだけで不利な立場に追いやられるだろうな」と思うことばかりだった。
日本の職場が経営学的な考え方や、分析的だったり論理的な判断や行動だったりを受け入れることに拒否感を持つことが多いのかな、と思う。卒業生がこんなことを言っていた。「学んだことをチームで活かそうとして、提案書を書いて上長に提出したところ、『メンバーがコンプレックスを抱き、チームワークが乱れるから取り下げてくれ』と言われた」と。
そこまで露骨ではなくても、そういうことはそれなりにあるのだろう。取引先が社員にMBAを取らせる施策を採ったところ、私の職場の同僚からは「そんなことをやっているからダメなんだよ」と無下に馬鹿にする発言があった。
中小の社長をしている友人は「高度な考え方を持ち込んでも、一人二人ができたところで、意味はない。従業員の多くができなければ組織は改善しないが、それは現実的な考え方ではない。明日の会社を動かすためには、そういったものは邪魔」とはっきり言っていたが、気持ちは分かる。
勿論、そこをどうやって改善するかが中長期的な勝負になるのだろうが、日本社会の多くは、もはや中長期を睨んだ動きは取れないのだろうか。
MBAが役に立たないと言われる背景を考えると、ちょっと寂しい。
実務経験
以前こちらで、経営大学院選びにおいて、社会人が主である方が良い、と書いた。先日お会いした、経営大学院の先生との会話の中でもこの件が話題になった。
専門職課程の経営大学院、つまりMBA課程は、社会人経験がある人間が入学することが多い。海外の事情まで細かいことは知らないが、留学経験者に聞くと、そういうところが多いという。
日本のMBA課程は、社会人経験者を対象にしていることが多く、その内の多くは、働きながら通うように制度が設計されているものの、別の一部には、社会人経験が短い、または無くても入学できるところがある。
純粋な研究を行う大学院とは異なることもあり、MBA課程では社会人経験がそれなり以上にないと、話題についていけないことが多い。頭では分かっても、実感が湧かなければ議論に参加できず、有益な学びにはなり難い。
入学対象者を社会人に限定しない趣旨は、それぞれの大学院によって異なるのであろうが、そんな事情から、私には、社会人経験があまりない人間を入学させる趣旨が分からない。
MBA課程の教授も、この点を懸念していた。特に学生たちを議論させる場で、経験豊富な社会人と、学生からそのままMBAに来たような人間の間では、議論がかみ合わないというのだ。
それは何となく分かる。私も趣味の世界で、ビジネスの世界に長くいた人と、そうでない人では会話が成り立たないことも多い。趣味の世界であればそれでも良いが、ビジネス実務に絡む話をするMBA課程では、それは致命傷だろう。経験が無い人が混じっているだけで、周囲も困る。
経験が無い人間の方が、アカデミックな知見の部分については、なぜか優秀であることは多い。それでも、MBAで必要なこととは、アカデミックな知見を実務に応用することである。実務経験が無いことは、その為の議論をする前提を欠く。
同期と話をしても、「実務経験を要求する大学院で良かった」と言っていた。やはり、経験が無い人間と議論はできないと感じたのであろう。
経験が無いから絶対にダメ、とまでは言えないだろうが、やはりMBAは実務経験を経てから、できれば働きながら行く方が良いのかもしれない。
転職
MBAになって、転職は容易になるのだろうか? 色んな話を聞いてみると、一概には言えないようだと感じる。
MBAになろうとして、経営大学院に通うと、転職希望者が周囲にいることがわかる。私もその一人なんだが。現状に何らかの不安や不満を抱き、経営全般の知見を高めた上で、転職に有利になると考えて学位の取得を目指すのだ。電車の中で、そんな話をしながら帰路についたこともある。
私や同期たちは、この3月に修了した。そろそろ転職活動が成功したとの知らせも入ってくる。在学中からオファーを受けていたりして、仕事がらみの人脈から誘われたらしい。
一方で、転職を希望しながらも、いまだにその連絡がない友人もいる。私もその一人だ。一体、何が違うのだろうか。
それぞれを見てみれば、ある程度は見えている。それは、仕事で築いてきた人脈だ。人脈を辿って転職活動をするのだ。その際にMBAは一定の評価を受ける。まず、人脈を辿り、その上で経験やMBAといった実力を評価してもらうというルートだ。
やはり人脈は必要なのだろう。一般的な求人には、MBAを要件としているものはない。ハローワークの求人を見たが、MBAを要件としている求人は見つけられなかった。求人サービスでも、MBAに向けたような求人は滅多に見かけない。こういった、日本では特殊な評価を受けがちな世界の求人は、一般向け求人ルートに出てこないらしい。
となると、社外に人脈を築きにくい職種は不利になりがちだ。内勤系の職種や、個人プレーの職種は人脈を築きにくいこともある。周囲を見てみれば、転職希望でMBAを取得しても、人脈が無ければ、評価してもらうところまでたどり着きにくい。
また、中小企業の人間は、人脈も中小に偏っていることも多い。中小の人間がMBAを取得する動機として、中小の世界から抜け出したいとか、過酷勤務を終えたいというものがあるが、人脈を辿っても中小の世界から抜け出せないことになる。大手側が、中小の人間を評価して引っ張ってくれるなんて滅多にない。よって、独力でMBAを評価し、採用してくれるような職場を探し出さなければならない。これは至難の業だ。日本企業の多くは、「MBAを欲しい」なんて表立って表明していない。そんなことをすれば、「エリート主義」と看做されて、一般国民から白い目で見られかねない。だから、独力で探し出すのは難しいのだ。まだ、ベンチャーなどの方が分かりやすいかもしれない。
周囲でも、中小の人や、内勤系が長かった人がMBAを取得しても、転職までの時間がかかることが多い。
そこで、起業する人もいる。社会人経験が長く、かつ勉強している人間の方が企業には有利だが、それでも企業するのはハードルが高い。
MBAを取得しても、必ずしも転職が容易になるわけではない。まず、それを評価してくれるところにたどり着かなければならない。私は中小の人間なので、転職にはエネルギーを要しそうだ。
情報源としての業界紙
業界紙はかつて、業界固有のニュースを提供し、市場の動向や政府の政策、貿易の動向などを詳細に報じることで経済復興を後押しする重要な役割を担っていた。しかし、時代の変化と共にその立場は大きく揺らいでいる。
前回の投稿で、業界紙を有力な市場情報の入手源としたが、業界紙には特有の問題があり、それを念頭に置いておく必要がある。
多くの業界紙は戦後の復興期に創刊された。特定の業界向けに市場の状況や政府の政策、貿易の動向を報道することが主な目的であり、これを通じて経済復興を後押しする役割を果たしてきた。しかし、現代ではそのような情報は調査会社や政府、業界団体のホームページから容易に入手可能となり、従来の業界紙による情報提供の重要性は薄れてきている。
業界紙の運営は、人数に限りがある小規模メディアが多い中で、記者自身が運営にも関わりつつ、新しい考えを取り入れる時間もなく過ごしている。この結果、昔ながらの体質を引きずり、時代に取り残されつつある。市場の動向を深堀りするのが業界紙の務めであるものの、やり方が古く、現代の情報の流れに適応できていないという声も多く聞かれる。
業界紙を取り巻く経済環境も厳しさを増している。バブル期の終わりから不景気が続き、企業の合併や買収が相次ぎ、購読企業や広告主の数が減少している。広告効果の低下とともに、広告単価も下がり、これが特に中小企業である業界紙を直撃している。デジタル化への対応も遅れ、読者離れを加速させている。
現代では、インターネットの普及により情報の媒体が多様化し、業界紙の存在意義は一層低下している。しかし、業界紙が持つ深い専門知識とその歴史的背景は、今後も一定の価値を持つ可能性がある。業界紙が新しい時代に適応するためには、デジタルへのシフトと、記事の偏りを避けるための厳密な編集方針の確立が求められる。この過渡期において、業界紙の再定義が必要であると考えられる。
なぜ、記事の偏りが出るのか。バブル崩壊以前の業界紙は、「業界の代弁者」といった位置づけがあった。メーカーにとっては、政府や卸業、小売業へ、中小企業は政府や大手企業へ、もの申す場でもあった。業界は、そのために業界紙を利用してきた歴史がある。その業界紙の存在をみんなで応援するために広告出稿がなされていた。つまり、業界紙への広告は、元々「本来の意味の広告」ではなかったのだ。しかし、現代では様々な場を通じてモノを申せる。業界紙の存在意義は低下した。そのうえ、前述の通り、広告の効果が薄れてきたために、業界紙への広告出稿は大きく減るようになった。この状況は、業界紙を追い詰めつつある。ある、大手企業の同期は「今後、業界紙への広告出稿を、角を立てずに減らしていくことが、広報担当者の腕の見せ所」とすら言っていた。今後、業界紙への広告が大きく増えることはなさそうだ。
経営がギリギリになれば、人数的な余裕はさらになくなり、記者たちも余裕をもって取材と執筆をすることができず、深い報道が減る。深い報道をしようとすれば、ただでさえブラック気味の労働状況を、より厳しくしなければならなくなる。まとまった休みを取れなくなった記者も多く、夏休みもろくにとれない人も珍しくない。その上、休日出勤や残業時の割り増し分が支払われないという企業も増えているという。中長期的な対応を模索する体力がなくなり、短期的に成果を上げる施策に集中するようになってきた。そのため、広告主を持ち上げるような提灯記事を書くように求めることが増えたそうだ。嘘は書かないが、良いことだけを書くことが増えたらしい。そのことを嘆く記者は多い。
記事の偏りには、こういった背景がある。情報源としては貴重だが、こういった事情を念頭に置きながら、読む必要はあろう。
業界情報の収集
業界情報を収集する際、大まかな情報は容易に手に入るが、詳細な情報へのアクセスは一筋縄ではいかない。多くのプロフェッショナルが経験するこの問題は、細かな市場動向の理解を求める上で大きな障壁となる。
業界情報の把握には、富士経済のデータや会社四季報の「業界地図」などの情報源が入門には適しているものの、全体の傾向をつかむに留まり、時には情報の正確性に疑問符が付くこともある。特に、市場の実情に即したその時々のデータが必要な場合、これらの資料だけでは不十分である。
業界や市場の情報を得るためには、MBA課程の学生たちのように業界を代表する企業の決算書や統合報告書を読む方法が一般的だ。しかし、企業が公開する情報はしばしば楽観的に描かれがちで、企業の具体的な戦略や問題点は曖昧にされており、市場の総体的な理解には至らない。さらに、市場には中小企業が大きな役割を果たしていることも多いが、これらの企業の情報は公開されにくいため、全体像の把握が難しい。
こういった中で、業界新聞が情報収集の有力な手段として位置づけられても良いだろう。業界新聞は、その市場に特化した情報を提供し、最新の動向や細分化された市場情報にも触れることができる。また、大手企業だけでなく中小企業の動きも詳細に報じるため、業界全体の理解を深めるのに役立つ。しかし、それも完璧ではなく、特に戦後の復興期に創刊された伝統的な新聞は、業界内部の視点で書かれることが多く、外部の新鮮な視点を取り入れることが少ない。
最近では、デジタル化の進展により、情報は以前にも増して容易に入手できるようになっている。それに伴い、業界新聞の役割も変化しており、情報の多様性と視点の新しさが求められるようになっている。若い記者たちは新しい視点を取り入れることで、業界新聞に新たな命を吹き込んでいるが、伝統的な記者の中には古い慣習に固執する者も多い。
業界新聞の経営状況も厳しく、購読者の減少と広告収入の低下に直面している。このため、多くの新聞が資金繰りに苦しみ、競争が激化している。業界新聞社は、読者と広告主の双方を満足させるために、広告主向けの、いわゆる「提灯記事」を書くことも少なくない。情報の客観性に疑問符がつくことがあるのだ。
業界情報を深く掘り下げるには、単一の情報源に依存するのではなく、複数の情報源を組み合わせて分析することが重要だ。デジタル情報、業界新聞、企業報告書など、各々の情報源の強みと弱点を理解し、それらを補完しあう形で情報収集を行うことが、真の市場理解への鍵となるだろう。このように情報源の多様化を図ることで、業界の深い洞察が可能となり、より効果的なビジネス戦略の立案や勉強に役立つだろう。
相互評価
学生同士がお互いを評価して、それが成績に反映される、という相互評価の制度は、先生による一方的な評価にはならないというメリットはあるが、やはり不公平感も残り、その運用には課題があると言えよう。
実務の多くでは、チームワークが実績のために重要になる。そんな実感を持つ人は多いだろう。学校にもよるだろうが、MBAの勉強でも、この辺りを重んじる授業は多い。
私が受けた授業の7割くらいで、グループワーク(GW)という、チームで宿題を完成させるという、これまで経験をしたことがない課題があった。多くの場合、個人に課されるレポートの他に、GWで内容を検討し、プレゼン資料を作り上げ、授業中にチームで発表する、ということが行われる。これが、レポートと並ぶ成績評価の材料となる。
ただ、たまたま優秀な学生のグループだったり、その宿題の内容について専門性が求められる仕事をしてきた人がメンバーにいたりすれば、最低限の努力で良い成績がもらえてしまう可能性もあり、不公平にもなりかねない。
そこで、先生によっては、これに、グループのメンバーで相互に評価させ、それも成績に反映させるという方法を採ることがある。これは、自分以外のメンバーを評価し、先生に提出するものだ。チームの成績は良くても、仲間からの評価が悪ければ、その成果物への貢献が低いとみなされ、良い成績はつかない。欧米の経営大学院では、よくある評価方法だと聞いた。
社会人院生なので、リアルに会って課題を検討することは難しいので、夜間にzoomで会議を開く。日程の調整が大変だった。
相互評価は、先生から見えない部分を評価してもらえるので、その点は有難い。また、MBAに必要なチームワークが評価されるので、実務的にも有益だ。
ただ、不満もあった。周囲の同期生たちとこの点について議論したが、同様の不満を抱えた人が数人いた。
チーム内で、目立つ仕事をした人や、仕切り役を務めた人に高評価がつく傾向がある。対して、裏方の仕事をした人や、重要だが地味な意見をした人、使われる部分はわずかだが、そのわずかな情報を出すために、裏では膨大な情報を処理した人などは、チームメンバ―からもその利点が見えないことが多く、評価は低くなりがちだ。
数人の友人と議論したところ、目立つ仕事や仕切り役をする人というのは、大手企業で若いうちから評価され、下積みの経験が短い人が多いと分かった。中小企業の経営者にも似たような傾向があったようだ。一方で、中小の従業員の多くは、下積みの経験が長くそういった人は、裏で重要な仕事をしたり、地道に小さな意見を積み上げたりする人が多いという話があった。
MBAに来るような人は、前者のタイプが多く、中小の人や下積みが長かった人は少ないので、裏方や地味な内容をこなす人にはスポットライトが当たりにくい。だから余計に、目立つ人に焦点が当たりやすくなる。
また、相互評価は、学生同士の人間関係に影響を受けやすい。
さらに、MBAの授業で扱う内容の多くは、大企業の従業員の方が、経験していることが多い反面、中小の人間にとっては初めて聞くことも多いのだ。GWでは、どうしても大手の人の方が目立つ役割を担うことになる。
そんなこんなで、不公平感は残ってしまう。
勿論、完璧な評価方法はない。だからこそ、相互評価だけでなく、チーム全体への評価やレポートも併せて成績がつくのだろう。また、相互評価は、前述のメリットもあるので、安易に廃止すれば良いとも思えない。
であれば、もう少し不公平感が生じにくいシステムに向けて改良できないだろうか。評価ポイントを予め提示するとか、その内容について根拠を示した上で学生の意見を取り入れるとか、色々とあるかもしれない。
相互評価は実に面白い制度だと感じたが、まだまだ改良の余地がある。不公平感を無くすということは、実務でも大事だろう。学生も、相互評価の方法について参画すること自体が勉強になると主張してみたい。
社会人院生が得たもの
社会人院生を終えて、最も得た財産は何だったのだろうかと考えると、それは異なる世界を同時に処理する経験なのだろうと思い当たる。
社会人院生という立場は、周囲から「大変だよね」とよく言われる。その通りだろう。何が大変かと言えば、当然ながら二つ以上の仕事を同時にこなすことだろう。複数の案件が常に並行している状況だ。
仕事において複数の案件を同時に進めることは珍しくない。しかし、社会人院生の場合は、仕事とは別に大学院生としても活動するという点が異なる。例えば仕事と介護、または複数の仕事などが同時に発生する。私の場合は、仕事と大学院生の両立が該当する。
始める前は漠然と「大変だろうな」と思っていたが、実際にやってみると、「かなり」大変だ。仕事と大学院生の並行は予想していたが、実際には家庭も加わる。仕事だけの頃は、家庭のことは余暇で処理できたが、大学院生としての時間を確保すると、家庭の時間を削るしかなくなるが、全てを削減するわけにはいかない。私の場合、老人と同居しているため、削れる家事は少ない。また、持病を抱えているため、これも並行して考慮する必要がある。仕事と持病の並行だけでも十分に負荷がかかるが、それに大学院生が加わり、家事も削り切れない状況になると、生活はかなりタイトになる。
同様に、二足どころかそれ以上の負担を抱えた同期も多くいた。社会人院生を成功させるには家族の協力が不可欠だが、協力を得ても、何も手伝わないわけではない。介護の責任を負う親や小さな子供がいる場合、家族としての役割は減らない。多くの人が、仕事・家庭・大学院といった三つの領域を同時に処理しなければならない。さらに、地域社会や親族の問題を抱えている人もいる。私のように、健康上の問題を抱えている人もいる。これらは二足ではなく、もっと多くの負担を抱えた状況だ。これが社会人院生の現実だ。特に、専門職の経営大学院では、実務経験が重要視されるため、実務経験を積んでいる方が有利だ。私が通った大学院では、数年の実務経験が要求されるが、実際には数年ではなく10年以上の経験を積んだ人が大半だ。20年以上の経験者も珍しくない。となると、ほとんどの人が一定の年齢以上であり、当然ながら何らかの問題を抱えている人が多いのは不思議ではない。
これらの問題に対処しながら、授業を受け、レポートを書き、卒業課題を完成させることが求められる。自己管理や周囲との協調、無駄の削減が極めて重要になる。
異なることを同時に処理する能力が大きなスキルになった。最初はそれほど大したことではないと思っていたが、実際に経験してみると、「並行」が最も困難なことだとわかった。色々な方法を試みた。例えば、エクセルでガントチャートを作成したりしたが、多くの方法はかえって手間を増やすだけだった。結局、A4の紙に手書きで数か月分の工程表をざっくりと書き、細かいことは紙の手帳で管理する方法が最も効果的だった。
工程表には、仕事・家庭・大学院・健康の項目を設け、それらを同時に記入した。紙の手帳では、週ごとに時間をデザインして記入した。簡単な進捗状況も書き留め、工程表をクリアしたら二重線で消し込んで、机の前に貼り付け、常に意識した。特に、この方法は論文を書いている時には非常に有用だった。
健康の項目には何を書くのかというと、特にないのだが、気圧の変動が体調に影響を与えることがあるため、中長期的な天気予報も記入し、体調の悪化をざっくりと予測してスケジュールを組んだ。中長期予報は変動するため、変更があれば工程表も更新した。あまり頼りにはならないが、何もしないよりはましで、少しは安心できた。
おそらく、社会人院生として得た最大の成果は、この「並行」を処理する力だろう。予想以上に大変だったが、なんとか乗り越えることができた。世界の上位層の人々は驚くべき努力をしている。このようなハードルを超えられないようでは、彼らの背中を追いかけることもできない。「並行」対処に苦労したことで、少しは、彼らに近づけたのかもしれない。
皆さんも、ご自分に合った方法を見つけてほしい。